義人田辺小兵衛 余聞
たしか、昭和32年ころ(不確か)よろいがたの母が、フカタジマで田起しをしていたとき、小さな大黒様を掘り当てました。2軒先の家でもフルヤシキで同じことがありました。
昭和30年代土地改良事業が行われ、フルヤシキのあたりから集落跡が出てきたそうです。そのまま埋め返されたそうです。馬堀用水の完成後現在地へ移動したのでしょうか。
用水は、西川から(燕市吉田本町)水を引き、岩室を通り流れており、創設時の原型を残しています。小兵衛が命をかけた用水は、近郷の唯一の用水路として干天続きでもとうとうとながれています。
現在の農協あたりが小兵衛の屋敷だったそうです。
2008/08/28
2008/08/27
馬堀大祭の事 其の3
義人田辺小兵衛 聞き伝え
田辺小兵衛は、元和元年(1615)馬堀村に生まれ,名主となる。そのころの馬
堀地域近郊は、干害、水害(用排水の便悪と
早水)のため困窮生活(どんぞこ)であった。
小兵衛は、私財を投じて測量,。用水路開削を計画。寛永16年(1639)長岡
城主に数十回直訴し、許可を得る。
正保元年(1644)大用水筒開発に成功。
翌年、独断事業であるとして公儀の調べを受け入獄,自殺をいい渡される。正保2
年(1645)7月25日30歳であった。
107年後,宝暦2年(1752)三根山領主の許可を得て建立したのが、首塚・
長恩院。
毎年8月25日盛大に祭りが行われている。
長恩院前たて看板,大字馬堀350回祭典にあたりより
田辺小兵衛は、元和元年(1615)馬堀村に生まれ,名主となる。そのころの馬
堀地域近郊は、干害、水害(用排水の便悪と
早水)のため困窮生活(どんぞこ)であった。
小兵衛は、私財を投じて測量,。用水路開削を計画。寛永16年(1639)長岡
城主に数十回直訴し、許可を得る。
正保元年(1644)大用水筒開発に成功。
翌年、独断事業であるとして公儀の調べを受け入獄,自殺をいい渡される。正保2
年(1645)7月25日30歳であった。
107年後,宝暦2年(1752)三根山領主の許可を得て建立したのが、首塚・
長恩院。
毎年8月25日盛大に祭りが行われている。
長恩院前たて看板,大字馬堀350回祭典にあたりより
2008/08/23
馬堀大祭の事 其の2
第367回忌長恩院 馬堀首祭り 奉納灯篭押し
燈篭押しは、甲と乙に分かれて,燈篭をぶつけて押し合い、勝ち負けを競い合うものです。それぞれ14名づつです。他に警護12名、消防・誘導4名、本部3名。警護長の指揮下で行われます。
馬堀地区内10カ所で行われ,最終は長恩院前です。ここで勝った組の燈篭が長恩院に掲げられます。負けた組の燈篭は隣の久福寺前に掲げられます。
この先導として、各集落単位の小燈篭がでます。各戸の小さな燈篭をリヤカーで積んでいきます。引いていくのは、小学生、保育園児です。
燈篭押しは、甲と乙に分かれて,燈篭をぶつけて押し合い、勝ち負けを競い合うものです。それぞれ14名づつです。他に警護12名、消防・誘導4名、本部3名。警護長の指揮下で行われます。
馬堀地区内10カ所で行われ,最終は長恩院前です。ここで勝った組の燈篭が長恩院に掲げられます。負けた組の燈篭は隣の久福寺前に掲げられます。
この先導として、各集落単位の小燈篭がでます。各戸の小さな燈篭をリヤカーで積んでいきます。引いていくのは、小学生、保育園児です。
2008/08/22
馬堀大祭の事 其の1
8月24日25日は馬堀の夏祭りです。近年は8月第3週の土日に行なわれています。いま風です。 4回くらいで伝えます。
23日の朝5時集合で旗立てをします。10メートルくらいの棒2本道路をはさんで立てます。3本の綱で垂直に固定します。
横棒を3メートル上空で2本をさらに固定します。そこに灯篭を下げます。御神燈,村中安全とか書いてあります。準備完了。
23日の朝5時集合で旗立てをします。10メートルくらいの棒2本道路をはさんで立てます。3本の綱で垂直に固定します。
横棒を3メートル上空で2本をさらに固定します。そこに灯篭を下げます。御神燈,村中安全とか書いてあります。準備完了。
2008/08/17
2008/08/13
2008/08/12
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